・ ・ ・ 呼び声響け、月夜に星夜に ・ ・ ・
epi.1

西の海に太陽が沈み、ゆっくりと夜の帳が下りてきた。
脳天を焦がすような真昼の熱気を残したまま、アスファルトはグレーに染まる。
凪を超えて海風は再び訪れた。

空には白い月。少年は坂道に伸びる自分の影を目で追っていた。

少年は両手をポケットに入れたまま、スニーカーの足で影を踏む。
すい、すいと影は先に進み、その闇は踏めそうで踏めない。ひとりの影遊び。

――なぁ、フエ。

またこの季節が来たよ。あの日から何度も夏を越えたよ。でも、あの夏は一度きり。

兄ィちゃんは、兄ィちゃんらしく、幸せになってくれ、なんて。
馬鹿フエ。
お前があんまり優しく笑うから、それだけで胸がいっぱいになって。

少年は空を見上げた。海辺の空は熱気を孕み灰色の雲は風に撒かれて長く伸びている。
そして雲を帯びた星々は暗闇に遊ぶ。
いくつかの衛星は闇を縫うようにゆっくりと進んで行った。

少年は目を閉じた。まぶたのうらに夜の帳。夏の日々、何度も抱かれた闇の色。

脳天を焦がすような真昼の熱気はまだ消えない。
分け合った記憶も、あの夏も、まだ消えない。
消えない。
ただ心の中で呟く。会いたいと思う。

さよならじゃないと言った、最後の言葉を思い出す。

――三志郎

あの声を、言葉を、微笑みを、思い出すだけで涙が出てくる。
会いたいと、願わずにはいられない人。会いたいと。

名前を呼びそうになった、けれど堪えた。今は呼ばない、呼べない。また泣いてしまうから。
泣き顔のままでは呼べないくらい、大切な人。

にじんだ視界で夜空の月は ちらちら揺れた。
ぼやけて揺れて、輪っかの形した飾りみたいに見えた。
言ったことはなかったけれど、あの飾り、似合ってた。そう思ったら涙が止まった。

きっと、泣いてる顔はきらいだろう。赤い瞳を曇らせて「面倒くせぇ」と嘲う。

少年は涙を拭いて 顔を上げた。

天には白い月。
epi.2

妖は空を見上げた。
姿も見えない、言葉も交わせない、触れることもできない。そんな身に成り果て、それでもずっとそばにいる。
あさましい。それでもそばにいたかった。
子どもは美しく健やかに成長した。その瞳の輝きは今でも空っぽの胸を高鳴らせる。

黒髪に触れてみる、子どもは気づかない。風の方がいい、気づいてもらえる。
まっすぐな瞳を覗き込んでみる、子どもは気づかない。影の方がよかった、見つめ返してもらえる。
名前を呼んでみようとして、やめた。声は届かない。
それに一緒にいた頃も名前など呼んだことはなかった。

ただ一度だけ別れの間際に呼んだ。

――三志郎

その声は響いて、消えた。

子どもは泣いた。別れのときも、その後になってからも
姿を探して、声を求めて、触れたがって泣いた。少しだけ泣いてから、涙を拭いて顔を上げた。
何度も何度も。

折に触れて子どもは俺の名前を呼ぶ。
夜の帳が降りた時、思い出の場所に立ち寄ったとき、美しい風景に出会ったとき。
知ってる?見えてる?聞こえてる?と。
大切な誰かに出会ったとき、新しい驚きに触れたとき、迷ったとき、喜んだとき、決意を胸に持ったとき。

――なぁ、フエ
と。
その響きは誇らしげで楽しげで、聞くたびに俺の胸は震える。どこまでも強い響きに、心は何度でも奪われる。
誇らしく思う。
どうだ、俺の兄ィちゃんはこんなにも強い。こんなにもかっこよくて、そして、なんて愛しいんだと。

髪に触れてみる。瞳を覗き込んでみる。名前を呼ぼうとして、やめる。そんなことを何度繰り返しただろう。
飽きもせず。

何度も季節は過ぎていった。
兄ィちゃんの長い旅は続いた。ずっとずっと、兄ィちゃんの探し物はみつからない。
探さなくても良いンだ、こんなにも傍にいる、知っているだろう?そう伝えられればよかったけれど。
姿は見えない、言葉も交わせない、触れ合えない。
だから兄ィちゃんはそんなことにも気づかない。気にもしない。
悔いてはいない。ただ守りたかった、そして願いは叶った。

互いに互いを抱き締める。それが互いを弱くして、それから互いを強くした。

あとどれくらい待つのだろう。あとどのくらい一緒にいられるのだろう。 あとどのくらい夏は続くのだろうと。
あの頃はそんなことばかり思っていた。
そして、そんな不安は全部、どっかに行ってしまった。
少年は思う。
泣いてしまう。 探し出したい。 声が聞きたい。

妖は思う。
空っぽの胸が痛む。見つけて欲しい。気づいて欲しい。

二人はともに歩く。
姿は見えない。言葉も交わせない。触れることもできない。
それでも。

天の満月を見上げて、兄ィちゃんは俺を呼ぶ。

「なぁ、フエ。すっげえ月!」

遠くの月を指差して。
この声は聞こえないけれど。この姿は見えないけれど。

その言葉に、俺は答える。

「そうだな、兄ィちゃん」
心は離れない。

呼び声は、消えない。
 ・ ・ ・ 呼び声響け、月夜に星夜に ・ ・ ・

妖逆門 フエ/三
Last Update : 2007/5/1 (Tue)

最終話の数週間前から混乱の極み、半狂乱で書きなぐった 三志郎epi と
最終話のショックから立ち直りつつ書き溜めた フエepi

本家の威力に眩暈を覚えながらも 目指せ、原作に則った ハッピーエンド!!